MeTooが映す:告発の泥沼と「金なき業界」の構造
「性表現を含む表現の自由」や「女性=社会の被害者ではない」というような主張をしていると、時折「男性に甘いのでは?」と言われることがある。
私はフェミニストとして、男女平等が理想であり、社会の基準であるべきだと思っている。女性と男性の権利が平等なら、義務と責任も平等にあると考えている。「女性だから」という理由で差別されたり不利益を被ることも、「女性だから」という理由で男性よりも甘い基準で評価されたり大目に見てもらうことも歓迎しない。「女性だから」を理由に免責され、ゲタを履かせてもらうことは、「女性には責任能力がない、男性に対して劣る存在」だと扱われることと同義だと考えているからだ。
ただ、自分では当たり前に思っているそれが、「女性に厳しい」ように見えてしまうのであれば、それがどのようなことなのかは考える必要がある。
MeTooや不同意性交等罪を巡る議論では特に、「女性は責任を問われない」という方向がデフォルトになっており、それに対して異議申し立てをすると「ミソジニー(女性嫌悪)」だとされてしまうことすらある。
今回は、表現者のMeTooに対して私が思っていること、とりわけ美術界の内側から見える状況や構造をまとめていこうと思う。
「金もないし時間もないが、人間関係のしがらみだけはある」の悪循環
美術界や演劇界、表現者のMe Tooに対して思う事は、そもそも、「お金がない人が大多数」であり、「仕事の絶対数が少なく著名な誰かが仕事を失えば得をする人が多い領域」において、トラブルは起こりやすいということだ。
誰もが注目と仕事を求めており、外からは「自由」に見えても内側はタコツボのように狭く流動性の少ない領域だ。金がなくて人間関係のしがらみが多い以上、狡猾な手段で注目を集めるインセンティブも働けば、冤罪で仕事を失った人を助けるメリットも少ない(今日誰かが失った仕事は、明日自分が得られるかもしれない仕事なのだ)。