フェミニズムが見逃してきた「おんなこども」の問題
ふとX(旧Twitter)を見ていたら、「戦争大きらい!!」という幼児が描いたような作風のイラストが目に入りました。手書きのようなゆるい線で描かれた丸っこいシルエットのクマが「あんしんしてくらしたい」「シュミをたのしみたい」などと言っているものです。
作者が誰をターゲットに描いたイラストかはわからないものの、即物的・即時的・主観的な快不快のみに焦点が当てられた、庇護されている側の視点しかないものを「成人の意見」として見るのはキツイなと感じてしまいました。安全や快適さは「タダ」では手に入りません。多くの人々の努力によって作られ、整えられ、維持されているものであり、同じ武装であっても侵略目的と防衛目的は異なるからです。
一方で、「おんなこども」は庇護の対象として注目されやすく、矛盾や論理破綻も大目に見てもらいやすい側面があります。他責しても許されるからこそ無責任になりやすいのです。「おんなこども」を盾にすること、あるいはそれを無自覚に使うことは、「男女平等」の社会で権利だけを享受し責任を取らない無責任な態度であり、フェミニズムが抱えている問題の一つであると感じます。
庇護される側の視点と「おんなこども」のフレームワーク
本稿では、ジェンダー論や政治運動における「保護されるべき弱者としての『おんなこども』のフレームワーク」について整理します。
結論から言うと、主に男性をターゲットとするコンテンツにおいて女性キャラクターが「幼く見える」ことに対しては多くの批判が行われているにもかかわらず、主流派フェミニズム内部から「おんなこども」のナラティブに対し直接的な批判が出されることは稀です。これは、フェミニズムが社会の構造的抑圧において女性を「被差別者」と位置づけているためです。
「おんなこども」のナラティブとは
「おんなこども」のナラティブとは、政治・メディア・社会運動・支援事業において「女性や子供を、無垢で不可侵な『保護されるべき弱者』のシンボルとして前面に押し出すフレームワーク(語り口)」を指します。
構成要素の大まかな特徴は、以下となります。
絶対的被害者の造形
善悪の二項対立
強力な罪悪感の動員
道徳的優位性の獲得と批判の無力化
このフレームワークでは、歴史的・構造的・政治的文脈や、本人の属性・複雑な背景をあえて切り離し、純粋な「かわいそうさ」だけを抽出した「無垢な被害者」と、「不当な加害者/構造」という単純な二項対立をつくります。これにより、複合的な問題が単純で扇情的なストーリーへ落とし込まれます。
このフレームワークを支持することは「道徳的優位性の獲得」と位置づけられるため、倫理的・感情的な揺さぶりをかけやすいのです。そのため、世論形成や自陣の優位性の獲得において、最低限のコストで最大の共感と行動を引き出すことができます。それだけでなく、批判や検証を求める声を「二次加害」「冷酷」だと無効化しやすいという特徴を持っています。
母性主義フェミニズムと福音主義フェミニズム
19世紀末〜20世紀初頭の第一波フェミニズムにおいては、母親としての責任と子供を守る役割を武器に参政権を要求する「母性主義」や、男性に対し飲酒率が低いことや性に奔放な割合が少ないことを「女性は道徳的に優れている」ことの根拠として権利を要求する「福音主義フェミニズム」が台頭しました。
そこではしばしば、「アルコール依存や暴力を男性による社会悪とし、そこから『子供と家庭』を守る母親」という単純化されたナラティブが、社会の関心や同情を引きつけるための強力なフレームワークとして用いられました。
また、女性の社会進出においても、子育てやケアの延長とみなされやすい教師や看護師などの職業は門戸が開かれやすかったという傾向があります。女性が自らの女性性を労働市場に拡張することは世論との摩擦が少ないという現象は、現在まで続く傾向といえます。
プラン・インターナショナルに見る「女の子」の道具化
プラン・インターナショナルなどのNGOは、女の子に教育を与えれば、将来の所得が増え、子どもを減らし、地域経済を成長させることができる、「女の子への投資=最も費用対効果が高い開発施策」というナラティブを推進してきました。また、その際の広告では、「無垢でかわいそうな状況におかれている女の子」という表象が繰り返し採用されてきました。

プラン・インターナショナルのオンライン広告の例
ここには、「賢い経済投資」としての女の子の道具化や、白人・先進国の中産階級の自尊心を満たす「救われるべき完璧で無垢な被害者」としてのステレオタイプ化が存在しています。
「私たちは買われた展」と辺野古の「女の子の壁」
買春・性搾取の被害に遭った少女たちのメッセージや衣類・物品などを展示した、一般社団法人Colabo(コラボ)代表・仁藤夢乃氏らが開催した企画展「私たちは買われた展」は、社会的に大きな波紋を呼びました。
展示において少女たちを「一方的に騙され、買われた被害者」としてのみ描き出す手法に対しては、以下のような批判がなされました。
個人の選択や複雑な家庭環境、主体的な生き残り戦略など、少女たちの抱える多面的な事情を単純化し、「無垢な被害者」「買春する男性=悪」というステレオタイプに収斂させているという批判。
当事者の「性的被害・トラウマ」を展示して観客の同情や罪悪感を煽る手法が、支援対象者の経験をポルノとして消費しているという批判。
また、仁藤氏およびColaboは、沖縄・辺野古での基地反対運動に若年女性を参加させ、支援者が被支援者を政治運動に巻き込んでおり、倫理的妥当性などの観点から物議を醸しました。警察や機動隊が座り込みをした若年女性の排除・連行を行う際に、「セクハラ」という言葉を強調して抗議をすることについても同様です。
これは、警察の正当な法執行を無力化し、世論の同情を買うために弱者・被支援者を「政治利用」し、「被害者性(性被害・セクハラ)」のナラティブを武器化していると捉えることができます。筆者の目には、仁藤氏は若年女性の性被害を積極的に訴える一方で、それを訴える手段として、若年女性のリスクへの曝露と安全配慮義務の違反(実質的な加害)を行っているように見えました。
