倫理的な創作の限界

創作者を守るための倫理と、創作そのものを縛る倫理
柴田英里 2026.08.09
読者限定

2010年代以降、ミュージシャンや漫画家、作家、アーティストなど、クリエイティブな職業に携わる人々にも、作品だけでなく、創作活動や発言において「倫理的であること」が強く求められるようになった。2020年のコロナ禍以降は、文化・芸術の社会的な役割や、創作者と社会との関係が改めて問われる機会も増え、この傾向はさらに強まったように見える。実際、コロナ禍は文化・創造産業に大きな打撃を与えた一方で、文化芸術が社会やコミュニティに果たす役割についても、改めて議論を促す契機となった。

90年代のサブカルに見られた「鬼畜系」のような露悪的な表現は、現代では生まれにくくなっている一方で、誰にとってもクリーンな環境で作られ、誰も傷つけない、ポリティカルにコレクトした物語や、「倫理的であること」そのものを訴える作家やアーティストが増えている。

筆者個人としては、差別やハラスメントのない創作環境や、国籍や性別など作者の属性によって不当に評価を貶められることのない評価の枠組みは求めている。しかし、作品や作者に対して、法を遵守すること以上に「倫理的であること」を求める風潮には違和感がある

特に気になるのは、実在する被害者が存在しない表現であっても、それに触れた読み手の不快感や苦痛といった体験が「被害」として捉えられるようになることだ。また、作り手側に、あらゆる「受け手」の感情や反応への配慮が過度に求められるような事例を見ると、創作に対する制限だけでなく、作り手自身の自己検閲や表現の萎縮効果を憂慮してしまう

創作において、他者を傷つけないことは本当に可能なのか。そして、誰かが「傷ついた」と感じたことを、その表現が倫理的に問題のある「被害」を生み出したことと同一視してよいのか。こうした問題を考えると、創作者に求められる「倫理性」の範囲が際限なく拡大していくことには、慎重であるべきだと思う。

「道徳」は誰もが簡単に獲得できる攻撃手段となる

橘玲『バカと無知』には、いわゆる「ポリティカルにコレクト」ではない人間の心理や、他者を道徳的に裁くことがなぜ快感になり得るのかについての興味深い指摘がある。

  • 第一に、社会的な動物である人間は、自分が「不正を行った」と感じた相手に制裁を加えることで、脳の報酬系が刺激され、快感を得るように進化してきたということ。つまり、他者への制裁は、単なる合理的な判断ではなく、それ自体が報酬として機能し得る

  • 第二に、人間は他者との比較において、自分より下にいる相手との「下方比較」を報酬、自分より上にいる相手との「上方比較」を損失として感じる。そのため、自分より高い地位にいる者を引きずり下ろすことには、大きな快感が伴う

  • 第三に、人間がステイタスを誇示する方法には、「支配(権力)」「成功(社会・経済的地位)」「美徳(道徳)」の三つがあるという。なかでも「悪」とみなしたものを叩くことで獲得できる道徳的ステイタスは、権力や経済力のような資源を持っていなくても、また特別な実績や証拠を示さなくても手に入れられる

橘が論じるこうした人間の特性と、ソーシャルメディアによって形成されるフィルターバブルやエコーチェンバーが組み合わされた現在の状況を考えると、「倫理的であること」は、必ずしも他者を守るためだけのものではなく、気に入らない他者を道徳的に裁き、攻撃するための道具にもなり得る。

そして、もう一つ考えておきたいのが、創作と倫理の関係である。

倫理は創作にポジティブな影響を与えるのか?

作品に最上の倫理観を求めることが、創作に必ずしもポジティブな影響を与えるとは限らない。そのことを考えるうえで興味深いのが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス女性文学の歴史である。

もちろん、イギリス文学の歴史と日本の文学・漫画の歴史は同じではない。そもそも日本には、11世紀初頭に成立した『源氏物語』という、世界文学史上きわめて早い時期に成立した女性による長編文学が存在する。また近現代の漫画においても、女性作家は特定の時代やジャンルに限定されることなく活躍してきた。

たとえば、国民的漫画・アニメ『サザエさん』の作者である長谷川町子。少女漫画では、1952年にデビューしたわたなべまさこが現在も活動を続けており、1970年代には、萩尾望都や竹宮惠子ら、いわゆる「24年組」を中心とする作家たちが少女漫画の表現領域を大きく拡張した。少年漫画でも、高橋留美子や荒川弘をはじめ、多くの女性作家が重要な作品を生み出している。

強固な男女二元論や家父長制を背景とし、ヴィクトリア時代に福音主義的な価値観が社会規範として大きな影響力を持ったイギリスと比較すると日本では女性が文学や漫画の創作者として活躍してきた歴史が長く広くあり、異なる文化的・社会的背景を持っているため、単純に比較することはできない。

だが、作品や作者に対し「倫理的であること」を求める風潮が年々強くなっていく中で、1880~1920年のイギリスの女性作家たちの事例を改めて考えることは重要なのではないだろうか。以下に、イギリス小説の歴史の中で、女性の自己認識がいかに表現されてきたかを詳細に跡づけ、彼女たち自身の文学の存在と主張が検証されている、エレイン・ショウォールター『女性自身の文学 ―ブロンテからレッシングまで』から紹介していこうと思う。

「正しい女性像」や「高い倫理」を求めたイギリスの女性作家たち

ショウォールターはこの著作で、イギリスの女性作家の歴史を、1840~1880年の「女性的」段階、1880~1920年の「フェミニスト」段階、1920年以降の「女性」段階という三つの時期に分けて論じている。これは単純な年代区分というより、女性作家と社会、そして支配的な文学文化との関係が、

  • 男性文化の規範を模倣する段階

  • それに抗議する段階

  • そのどちらからも距離をとり、女性自身の経験を表現の源泉としていく段階

へと変化していくという、女性文学の発展過程として提示されたものである。

ここで扱われる1880~1920年の「フェミニスト」期は、女性作家が従来の女性役割や社会規範に対して、文学を通じて異議申し立てを行った時期でもある。この時期には、いわゆる「ニュー・ウーマン」をめぐる小説や、女性の権利・自立を主題とする作品が登場し、従来の女性倫理や性道徳に対する批判、新しい女性像の模索が重要なテーマとなった。

では、「正しい女性像」や「高い倫理」を求めることは、彼女たちの創作を豊かにしたのだろうか。

1880~1920年の「フェミニスト」期の女性作家を理解する前提として、ヴィクトリア時代後期のフェミニズムが、単純な解放思想ではなく、さまざまな矛盾と葛藤を抱えていたことを押さえておく必要がある。

当時の女性運動の一部では、母性を女性の本質として肯定しながら、性行為そのものには強い嫌悪を示し、出産を恐れるという矛盾が生じていた。性的なジレンマに対する合理的な対応として、節制や禁欲が重視されたのである。

女性に対する社会的な規範は、文学の世界にも及んだ。ヴィクトリア時代の書評家たちは、女性作家を「女であること」に焦点を当てて評価する傾向があり、女性の知的能力そのものを疑う言説も存在した。女性は感情や夢想、表面的な観察には優れていても、論理的・思想的な発展を担う能力には欠ける、といった評価である。

また、女性に求められた上品さや慎み深さは、リアリズムや心理分析、知的に精緻な小説を書くうえでの障壁にもなった。厳格な福音主義的な環境では、物語を創作すること自体が虚偽や罪につながると教えられる場合さえあった。

この記事は無料で続きを読めます

続きは、3493文字あります。
  • 自己探求と社会道徳のジレンマ
  • 創作者を守るための倫理と、創作そのものを縛る倫理

すでに登録された方はこちら

読者限定
表現と「社会正義」の過剰接続:『みいちゃんと山田さん』炎上について思う...
サポートメンバー限定
2026年7月の執筆参考文献
サポートメンバー限定
「フェミニズムの現在地」の感想
サポートメンバー限定
フェミニズムが見逃してきた「おんなこども」の問題
読者限定
「子供を守る」という美徳の罠:エロ広告規制法案の問題点
誰でも
お知らせ
誰でも
フェミニズムと性の論争
読者限定
無料登録者数が200名を突破しました!