表現と「社会正義」の過剰接続:『みいちゃんと山田さん』炎上について思うこと
『みいちゃんと山田さん』アニメ化とその反対運動
累計発行部数200万部を超えるヒット作『みいちゃんと山田さん』のアニメ化が発表され、連日インターネット上で物議を醸しています。本作は2012年の新宿歌舞伎町を舞台に、キャバクラで働く「山田さん」と、周囲から蔑視され漢字や空気も読めない新人「みいちゃん」の出会いから、みいちゃんが殺害されるまでの約1年間を描いた作品です。可愛らしいタッチの画風とショッキングなストーリー展開の落差が話題を呼び、連載更新のたびに注目を集めてきました。
今回のアニメ化に対する反対意見としては、主に以下のような主張が掲げられ、反対署名活動へと発展しています。
「みいちゃん」という呼び名が当事者を揶揄する蔑称として使用される恐れがあり、差別を助長する
こうした倫理・道徳やポリティカル・コレクトネスを根拠とした批判は、「正当な異議申し立て」の構図を取るため、構造的に反論がしにくい特徴を持ちます。しかし、ネット上で否定的なニュアンスを帯びて使われる「みいちゃん(みたい)」という表現を、直ちに「障害蔑視」と断定することには疑問が残ります。
作中には、みいちゃんよりも重度の障害を持つと推測されるキャラクター「むうちゃん」が登場しますが、むうちゃんという存在が否定的な文脈で消費されることはなく、読者コメント等でもみいちゃんとは明確に区別されています。むうちゃんは、かつてはみいちゃんとともに万引きなどの軽犯罪を犯していましたが、逮捕された結果適切な支援につながり、みいちゃんにも福祉センターに繋がることを推奨します。むうちゃんにも「飲食代を払い忘れる」など、他者に迷惑をかける描写はありますが、「癇癪を起こし友人が大切にしているものを壊す」「家主に無断で客を取り家主のベッドで売春をする」みいちゃんのように、周囲を巻き込んだ迷惑行動は起こしません。つまり、受け止められ方の違いを決定づけているのは「障害の重さ」ではなく、「無責任で場当たり的な行動が他害(他者への実害)につながっているか否か」という点にあると言えます。
デバイスの進化と「感情の炎上」
2010年代以降、スマートフォンの普及とSNSの台頭により、オンライン上で「共感」や「被害者への寄り添い」を表明する行為がポピュラー化しました。
総務省のデータによれば、2011年以降スマートフォンの普及は急速に進み、今日では世帯保有率が9割を超えています。PCやタブレットを大きく上回り、インターネット利用の主要なインフラとなりました。
スマートフォンが個人の行動履歴や思考を集約する現代において、マーシャル・マクルーハンが提唱した「メディアによる人間の拡張」という概念は実感を伴って迫ってきます。現在のスマホは個人の記憶媒体であると同時に、広告ネットワークやアルゴリズムによって最適化された情報が絶え間なく流入する商業空間でもあります。そのため、メディアによって思考が拡張されると同時に、自身の潜在的思考が侵襲されるような脅威を抱く構造が存在します。
一方、SNSはパーソナルとマスのコミュニケーションを融合させたメディアであり、場所や時間によるゾーニングを無効化させました。
ネット上の炎上事案は「発端→拡散→炎上」という段階を踏みますが、その発生源の多くはX(旧Twitter)です。テレビCMやポスターなど発端の媒体が何であれ、Xを経由することで炎上へと増幅されます。
例として、2016年に東京メトロの公式キャラクター「駅乃みちか」が「鉄道むすめ」とコラボレーションした際の萌えキャラ化イラストの炎上事案が挙げられます。この時、拡散された批判投稿には以下のような扇情的な言葉が添付されていました。
「表情が性的」「身体をくねらせて扇情的」「スカートが透けてる!」「頬赤らめてスカートの中が透けてて泣きそうな顔でおしっこ我慢するポーズ」

しかし、実際のクリエイティブを冷徹に確認した際、これらの言葉が示すイメージとイラスト自体が一致していたかはきわめて疑わしいように思われます。
怒りには人を刺激し依存させる力があり、SNSにおいて最も拡散速度が速い感情であるという研究結果もあります。人間は言語を介して解釈を行うため、「炎上したクリエイティブそのもの」と「批判者(投稿者)のフィルターを通して言語化されたクリエイティブ」は全く別のものです。投稿者の解釈というフィルターを通過した情報が拡散され、世論の是非として問われているのが炎上の実態です。
「社会正義」と「共感」の硬直化
近年、フェミニズムやポリティカル・コレクトネスといった社会正義の価値観が台頭し、共感や連帯を軸としたアクティヴィズムが活発化しました。しかし、この「共感」の過剰な重視は、異論を許さない空気や、異なる意見に対して即座に「加害」のレッテルを貼るような言論の硬直化をもたらしています。
ポリティカル・コレクトネスには時に「言葉狩り」の側面が見られ、女性やセクシャルマイノリティの肯定的側面のみを過剰に強調する傾向があります。「多様性の尊重」を掲げながら、自らの「社会正義」観にそぐわない価値観を恣意的に排除・忘却しているのです。
ロクサーヌ・ゲイは著書『バッド・フェミニスト』の中で、11歳の少女が集団性暴力に遭った事件に関するニュース記事を引いて「フィクションの中の暴力と現実に存在する暴力を切り離すことはできない」と主張しました。しかし、フィクションと現実は明確に異なるものです。現実に起きた悪質な事件を引き合いに出してフィクション表現を断罪することには、論理的な跳躍があり、因果関係も相関関係も存在しません。
感情はどこまで行っても「感情」であり、「客観的事実」とは同義ではなく、「共感」をベースにしたナラティブには、解釈の幅を狭め、自都合に歪曲されやすいという脆弱性を抱えやすいのです。
テクストとの距離感と表現規制
近年では、女性芸人の自虐的なネタや、女性イラストレーターによる皮肉交じりの女性描写に対しても、「女性差別を助長する」「自己肯定感を奪う」といった批判がなされることがあります。ここには、「フィクションと現実を混同する問題」が存在します。
